3月13日(金)に観た、「GREATHUL DEAD」について。
人間の生きる目的は、自分の存在を確認することである。これは思索の末の哲学ではなく、経験上の単なる実感です。こんなところで個人的な信条を開陳するのはどうかと思いますが、この視点に立つとこの映画が理解できるのではないかとの判断です。
笹野高史さんが演じるのは、過去の出来事から人間嫌いになった孤独な老人です。実の息子との折り合いも悪い。そんな姿を隣のビルの上から眺めているのは、両親からの愛情を受けることが無かった若い女性のナミ。自分の存在に手応えがない彼女も孤独です。
あらすじには、彼女が孤独な人々を観察しては、優越感に浸っていると書かれていましたがどうでしょう。むしろ、同類の発見によって自分の孤独を肯定しているのでは、というのがわたくしの意見です。
ですから、彼女と同一化した老人は、徹頭徹尾、孤独でなければならない。それなのに、思いがけない出会いによって、老人が家族や他者との関係性を回復し、再び幸福を感じていることなど許されない。
ここからナミは、老人の幸せを破壊するための実力行使に及びます。当然、老人も自分の大切なものを守るために彼女と闘う。自分の存在を成り立たせている人やモノために行動する時、良きにせよ悪きにせよ、ひとは過激になります。なぜ彼女がここまで、この老人に執着するのかについては、後に明らかになる。
最終的に戦いの決着はつく。お話としては、どちら側にも救いが訪れたようです。しかし、現実世界に置き換えると、一方は被害者で、他方は犯罪者でしかない。愚行の末に、「誰でもよかった」と述べる甘えた連中が、その卑近な例です。
孤独を知るから、自分が如何にあるべきかを知る。そして、自分に対する自己規定は自分の存在のせいぜい半分でしかない。さらに、他人の存在を通じて自分を認識する事が必要なのです。
余談ですが、登場人物をキャラクター化したステッカーを貰ったのですが、どこに貼るの、これ?